かつ吉資料館 DOCUMENT

かつ吉各店の店内に飾られている書や骨董、歴史、かつての仲間をご紹介していきます。

かつ良 店主 和田様

東京・下北沢に店舗を構える人気とんかつ ステーキ専門店、かつ良(かつよし)。

地元下北沢で暮らす地域の方々からの根強い支持を集め続け、親子三代、四代にわたってお店を訪れるお客様もいらっしゃるほどの、本物のとんかつ料理店です。

ただ、オープンしてから5年間は来店者が少なく、お店として本当に苦しい時期が続いたといいます。

「その日、来てくださったお客様に、自分がおいしいと信じるとんかつをお出しし続ける。それしかありませんでした。」

当時のことをそう振り返る、かつ良店主 和田さんに、かつ吉での修行時代のこと、お店を持たれてからのこと、そして、お客様から愛されるお店を続けていくために大切になさっていることなど、お話を伺いました。(インタビュー・文 K’s WEB Consulting )

二十歳で一生の仕事を決めた

飲食業の道を選んだ原点

― かつ吉に入店なさった理由やきっかけを教えてください。

和田さん:私の両親は、共に学校の教師だったんです。自然、教育や進学には熱心で、私も大学まで進学させてもらい、教師を目指して勉強していました。

ただ、その両親、特に父親には申し訳ない話なんですが、私は大学2年生のころには、「自分の道は飲食業だ」と決めていました。それまで続けていた教職員免許取得のための勉強もやめてしまいまして、後からそれが親父にバレた時には、もう勘当寸前までいきましたね(笑)。

― 大学2年生、二十歳くらいの時に、ご自身の一生の仕事を決められたんですね。

和田さん:はい。大学時代に色々と飲食店のアルバイトしたことと、下宿生活での経験が、道を決めた理由です。

外食ばかりできるような仕送りはもらえません。できるだけ食費を抑えるためにと自炊をするわけですが、私が何か食事を作ると、「食い物だ」ということで(笑)、同じ下宿に住む学生たちが集まってくるんです。

そうしてみんなで食事するときに、私が作ったものを食べて、みんなすごく喜んでくれるんですね。もちろん、「とにかく腹が減っていた」という理由も大きかったんでしょうが(笑)、自分が作ったものを目の前で食べてもらって、それで喜んでもらえる。そうした経験を通して、「料理で人に喜んでもらえる仕事をしたい」、と考えるようになったんです。

かつ良 店主 和田様

ただ、当時は大学への進学率も今ほど高くありませんでしたし、飲食業という仕事そのものも、世間的にはあまり「良い(立派な)職種」とは見てもらえませんでした。ですので、周りの人間からは、「せっかく大学まで出たのに、なぜ飲食店に?」と反対されました。

就職活動をする友人からは「考え直せ」と止められますし、まして親父は教師で公務員ですから、後でバレた時にはお話した通り、それこそ勘当される寸前、というくらいの反対にあいました。

それでも私に迷う気持ちが起こらなかったのは、自分の作った料理で人が喜んでくれる、そのことの歓びがあったからだと思います。

「難関」を突破し、かつ吉に入店!

「うちは大学出でも中卒でも同じ扱いだが、それでもいいか?」

― かつ吉は、就職志望先の飲食店の候補の一つだったんですか?

和田さん:就職活動では、そうした周りからの反対にあいながらも、飲食店ばかりを40件以上まわりました。ただ、その当時は飲食店の側も「大学出は扱いづらくて嫌だ」ということで、断られ続けました。そうして最後に、かつ吉の門を叩いたんです。

その時は応募者が30人以上いたそうで、その結果採用していただいたのは私含めて2人だったそうでしたから、かなりの「難関」だったようです(笑)。

全部で3回、面接があったんですが、当時の店主の吉田吉之助さんには、「うちは大学出でも中卒でも同じ扱いだが、それでもいいか?」と聞かれたことを覚えています。「もちろん構いません」とお答えして、採用していただきました。

― ようやく念願の飲食店に就職できたわけですね。

和田さん:はい。ただ、かつ吉水道橋店に入店して1年以上は、一日中洗いものばかりでした。パンツまで ビショビショになりながら、ただひたすら食器を洗うだけの日々です(笑)。

その時代はどんな職業でもそうだっただろうと思いますが、誰も何も教えてくれませんし、すべて見て覚えるしかありませんでした。今から思えばとても封建的ではあったと思います。ただ、先輩に殴られたり叩かれたりしたことは、一度もありませんでしたね。

これはずいぶん後になってから聞いたんですが、私は入店前からかなり「生意気な奴だ」と思われていたようです。入店してからも「白いものを黒いとは絶対に言わないぞ!」という気持ちでやっていましたから、実際生意気だったのかもしれないんですが(笑)。それでもかつ吉時代を通して、誰かから何か理不尽な仕打ちを受けるようなことは、一度もありませんでしたね。

日本橋店へ移転 すべて見よう見まねでお店を回す日々

和田さん:そうこうしているうちに、かつ吉現店主の吉田次郎さんに声をかけていただいて、日本橋店に移転することになりました。ですが、私が移る直前くらいに、日本橋店を回していた中心メンバーが、新宿のとんかつ店に引き抜かれて、まとめて店を出て行ってしまったんです。

念願かなって料理を作れる立場にはなったんですが、ほとんど何も分からない状態で、いきなりお客様にお出しする料理を自分たちが作ることになってしまいましたから、本当に大変でした。

その当時は、自分より上には吉田次郎さんだけでした。その次郎さんもまだ経験が浅いときで、とても誰かに何かを教えていられる状態じゃありませんでした。さらに次郎さんは、とんかつの揚げ上がりに納得がいかないと、ヒレだろうが何だろうが全部捨てて作り直してましたから、その下でやるのも大変でしたね(笑)。

かつ良 店主 和田様

あの頃は店の全員が、とにかく昼も夜も目の前の仕事をこなすことで精いっぱいの状態でした。閉店後、夜中に寝ないでキャベツを刻んでいたこともしょっちゅうでした。日曜日・祭日なんかは、座って食事することなんてありませんでしたね。

そんな状態ですから、とんかつの揚げ方から何から、全部見よう見まねでなんとかするしかありません。本当に大変でしたけど、やりがいはありました。自分たちがトップになって店を回しだしてからは、つらいだなんて言ってられませんしね。後にあるのは、料理を作れるという歓びだけでした。

かつ吉日本橋店の店長兼料理長に

和田さん:それから2年後には、新店舗の出店の関係で次郎さんが日本橋店を出ていくことになり、私が日本橋を引き受けて実質的な店長兼料理長になりました。「後は任せてください」という気持ちで、引き受けさせてもらいました。

それから4~5年間、店長兼料理長としてやらせてもらいました。そうした修行時代は、つらかったですけど、後にあるのは歓びだけ。つらいですけど歓びでした。

やっぱり、好きだったら、どんなに大変でも苦じゃなくなると思います。人から言われてやることじゃなくて、自分が好きで選んだ仕事でしたからね。

独立し、お店は順調。さらに大きなお店をと「かつ良」を出店! しかし・・・

― そうして日本橋の責任者を務められた後、独立なさったわけですね。

和田さん:はい。あるご縁から、武蔵小山にあった、ある閉店してしまった小さなとんかつ店をやらないか?、というお話をいただいて、それを機に独立させていただきました。

おかげ様で開店後すぐに繁盛して、飽和状態になりました。その時、次郎さんから、「もっと大きいところでやらないか?」とお声をかけていただいたのが、この「かつ良(よし)」だったんです。

内装などのお店作りの面でも、吉田次郎さんには大変お世話になりました。そうして昭和49年、ここ下北沢の地に、とんかつ ステーキ専門店「かつ良」をオープンすることができました。

とんかつ・ステーキ専門店「かつ良」の店内

― こちらのお店もすぐに繁盛したんですか?

和田さん:いえ、オープンしたのはいいものの、それからは本当に大変でした。

今にして思えば甘い考えだったんですが、「うまいものさえお出ししていれば、お客様はどこからでも来てくださる」と思っていました。

「はたしてそうか?」というと・・・まったくそうじゃなかったですね(笑)。

とにかくお店があることを知っていただかないといけないんですが、新聞の折り込みチラシは、ほとんど効果がありませんでした。チラシを打つにもお金もかかりますので、何度も続けるわけにもいきません。駅前でチラシをまいたりもしましたが、後はもう口コミ待ちしかありませんでした。

続けてきたもの、信じたものをお出しし続ける

一人ひとりのお客様との真剣勝負

和田さん:毎日、お客様がすごく少ないとはいえ、一日中ゼロではありませんでしたから、とにかくその日、来てくださったお客様においしいとんかつをお出しして、ご満足いただくしかありません。

毎日、少ないながらも来てくださったお客様一人ひとりに、「もう一度来よう」、「今度は誰かと来よう」と思っていただけるように、真剣勝負を続けるだけでした。

そうしてその人お客様が2回来てくれる、3回来てくれる、お仲間を連れて来てくれるのを、辛抱強く待ちました。

― 何かのきっかけで上向いたんでしょうか?

和田さん: それはありませんでしたね。毎日、少しずつ積み上げるだけでした。

厨房からお客様の反応を見ながら、自分が思う最高においしいとんかつをお出しし続けました。それ以外のことといえば、口下手な私なりにも、お客様と一言二言、笑みを出して会話する・・・というようなことぐらいで、そういう地味な努力を続けるだけでした。

お客様のご来店と売上げの伸び方は、少しずつ良くなってはいたものの、オープンしてから何年も、ほとんど横ばいでした。本当に苦しかったですね。ある程度のペースで伸び始めるまでには、5年くらいはかかったと思います。

一人ひとりのお客様との真剣勝負

― 途中で味を変えたくなったりしませんでしたか?

和田さん:それは確かにありましたけどね。それでも、自分が長年やってきて、それで納得したとんかつをお出してるわけですから。

余所にとてもおいしいものがあれば参考にしたかもしれませんけど、自分はこれでやって来て、「これがいい」、「これで間違いない」と知っていましたからね。

とんかつ・ステーキ専門店「かつ良」の特上ロースかつ定食

とにかく、このとんかつの味をお客様に知っていただくまで、フラフラしないで、信じてお出しし続けました。

ただ、それまでには本当に長い時間がかかりましたけどね(笑)。

苦しい5年間を頑張り切れた理由

原点にあった「歓び」

― オープンして5年間もの間、ほとんど変わらず苦しい状態が続く中で、それでも続けられた理由は何ですか?

和田さん:えばって言えるようなことは何もありませんけど、もともと雑草みたいな性格で、辛抱強いんですよ。これは性分だと思うんですが。

後は何よりも、自分が料理をお出しして人に喜んでもらえるという、その歓び。本当にそれだけですね。私にはそれしかできないですし。

苦しい毎日の中にも、お客様の反応を見て、「喜んでくれた・・・よし!」というような、初めて自分の料理で人に喜んでもらえた時と変わらない、そういう気持ちがいつもあったせいだと思います。

これは飲食業を目指した頃から、私の夢として思い描いていたことだったんですが、おかげ様で今では、地元下北沢のお客様を中心に、お孫さんの代まで、3代続けて来てくださるお客様が少なからずいらっしゃいます。最近ではさらにその下の、4代目になる小さなお子さん連れでご来店くださるお客様もいらっしゃるほどです。

うちの店はかつ吉ほど知名度があるわけじゃありませんが、地域の人を大事に、私なりにやって来たら、3代目、4代目・・・と、そんな風になってきたんです。古くからのお客様がこの店を選んで来てくださることが、毎日、本当にありがたいです。

「他の余計な言葉は必要ありません」

かつ吉というお店

― 最後に、今のかつ吉についてお感じのことがありましたら、一言お願いします。

和田さん:それは・・・、一言で言い表すのは本当に難しいですね。もう「おいしい」だとか、「素晴らしい」とか・・・、そんな言葉しか出てきません(笑)。料理もお店も、細かいところまで行き届いていて、本当に素晴らしいと思います。今でもお付き合いが続いていて、とてもありがたいです。

ずいぶん昔のことですが、かつ吉さんの社内のマニュアルに、かつ吉で修行し、独立していった人間として、短い文章を書かせていただいたことがあります。確かそこでは、「かつ吉で食事をしていると、一瞬おとぎの国にいるような錯覚さえ覚える」、というような表現をさせていただいたと思うんですが、これは今でもそう思います。

ただ、一言にしたら、「とにかく美味しい、素晴らしいお店」、ぐらいしか出てこないです。私にはこの言葉でだけで十分で、他の余計な言葉は必要ありません。

― 貴重なお話を、ありがとうございました。

とんかつ・ステーキ専門店 かつ良

かつ良

東京都世田谷区北沢2-3-12 友和ビルB1 [地図を表示]
TEL:03-3412-5990